もし、中国に行った経験があれば、数多い街は碁盤型じゃなくて放射型ですね。ぐるぐる回ると原点に戻れます。日本では東京は放射型の町ですが、大阪と京都などが碁盤型の町ですね。ということで、放射型の町ー四川省から来た筆者は碁盤型の大阪でよく迷いました(笑)。
京都の中心地は碁盤(ごばん)の目のように整然(せいぜん)と整備(せいび)されており、通りひとつひとつに名前がつけられています。しかし、その名をすべて記憶するのは至難(しなん)の業。果たして(はたして)地元(じもと)の方々はどのように覚えているのでしょうか。今回『おもしろい京都案内』では著者·英学(はなぶさがく)さんが、京の通りの名の由来と、地元の人なら誰でも歌える「通りを覚えるわらべ唄」を紹介してくださっています。
・「釜座(かまんざ)通り」
梵鐘(ぼんしょう)や茶釜(ちゃがま)の鋳造(ちゅうぞう)を行っていた釜座が集まっていた通りで、今も三条釜師(かまし)には大西家が家業(かぎょう)をついています。茶道の千家のために茶道具を作り続ける家柄である千家。十職の中の釡師·大西清右衛門(せうえもん)家がある通りです。
・「上長者町(かみちょうじゃまち)通り」
江戸時代より貨幣(かへい)を取引(とりひき)する裕福(ゆうふく)な両替商人の邸宅(ていたく)が立ち並んでいた通りでした。
・「千本(せんぼん)通り」
葬送地(そうそうち)·蓮台野(れんだいの)への道でおびただし数の死者(ししゃ)を送るため千本もの卒塔婆(そうとうば)が立てられていたと伝えられている通りです。
・「両替町(りょうがえまち)通り」
家康によって江戸時代に小判の製造をする金座が設けられ、金融関係の業者が軒(けん)を並べていたと伝わります。
・「京都中心地の十字路(じゅうじろ)」
京都の十字路の多くは、「四条河原町」のように交わる(まじわる)2本の通り名を合わせて呼ばれています。
平安時代は、東西の大路が先に名前が付けられていたようです。
その後、室町時代、後期に商人に経済力がついてきたころに状況が変わります。
町に優劣(ゆうれつ)が生じ始める(しょうじはじめる)と「三条河原町」ではなく「河原町三条」というように、有力な町が面する通りが先にくるようになったのです。
簡単に言うと、東西であるヨコの通りが先でタテの通りが後に読まれるのが、その逆に読まれるようになったということです。
京都では住所や道案内も通り名で表し、北へ向かうことを「上がる(あがる)」、南へは「下がる(さがる)」と言います。東へ向かうことを「東入る(ひがしいる)」、西へは「西入る(にしいる)」と言います。
平安京の都では北に天皇が住む内裏(だいり)があったので、北へ行くことを「上がる」と言うようになったと伝えられています。これは京都独特の文化として現在も残っています。
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Link:http://jp.hjenglish.com/new/p1189722/
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京都の中心地は碁盤(ごばん)の目のように整然(せいぜん)と整備(せいび)されており、通りひとつひとつに名前がつけられています。しかし、その名をすべて記憶するのは至難(しなん)の業。果たして(はたして)地元(じもと)の方々はどのように覚えているのでしょうか。今回『おもしろい京都案内』では著者·英学(はなぶさがく)さんが、京の通りの名の由来と、地元の人なら誰でも歌える「通りを覚えるわらべ唄」を紹介してくださっています。
・「釜座(かまんざ)通り」
梵鐘(ぼんしょう)や茶釜(ちゃがま)の鋳造(ちゅうぞう)を行っていた釜座が集まっていた通りで、今も三条釜師(かまし)には大西家が家業(かぎょう)をついています。茶道の千家のために茶道具を作り続ける家柄である千家。十職の中の釡師·大西清右衛門(せうえもん)家がある通りです。
・「上長者町(かみちょうじゃまち)通り」
江戸時代より貨幣(かへい)を取引(とりひき)する裕福(ゆうふく)な両替商人の邸宅(ていたく)が立ち並んでいた通りでした。
・「千本(せんぼん)通り」
葬送地(そうそうち)·蓮台野(れんだいの)への道でおびただし数の死者(ししゃ)を送るため千本もの卒塔婆(そうとうば)が立てられていたと伝えられている通りです。
・「両替町(りょうがえまち)通り」
家康によって江戸時代に小判の製造をする金座が設けられ、金融関係の業者が軒(けん)を並べていたと伝わります。
・「京都中心地の十字路(じゅうじろ)」
京都の十字路の多くは、「四条河原町」のように交わる(まじわる)2本の通り名を合わせて呼ばれています。
平安時代は、東西の大路が先に名前が付けられていたようです。
その後、室町時代、後期に商人に経済力がついてきたころに状況が変わります。
町に優劣(ゆうれつ)が生じ始める(しょうじはじめる)と「三条河原町」ではなく「河原町三条」というように、有力な町が面する通りが先にくるようになったのです。
簡単に言うと、東西であるヨコの通りが先でタテの通りが後に読まれるのが、その逆に読まれるようになったということです。
京都では住所や道案内も通り名で表し、北へ向かうことを「上がる(あがる)」、南へは「下がる(さがる)」と言います。東へ向かうことを「東入る(ひがしいる)」、西へは「西入る(にしいる)」と言います。
平安京の都では北に天皇が住む内裏(だいり)があったので、北へ行くことを「上がる」と言うようになったと伝えられています。これは京都独特の文化として現在も残っています。
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Link:http://jp.hjenglish.com/new/p1189722/
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